1年前のことを日記を元にふりかえって記録しておく。2011年3月というと、父と誕生日が同じ坂上二郎が亡くなったことと、水曜どうでしょうの新作の放映が始まったことと、いろんな偶然が重なりHamamatsu.rbの発起人になったことと、ずっとやっている仕事のことなどが私の大きな関心事だった。そんな中、地震が起こった。遠くでなにかとんでもないことが起こっていて、そこで苦しんでいる人がおそらく想像できないほどいるという現実を、じわじわと理解していった恐ろしい一日だった。そしてそれは翌日以降も続いた(その恐怖は当事者に比べればほんと微々たるものだったけども)。
その金曜日は会議など午前からたくさんの予定があって忙しい日だった。14:30ころ地震。WeatherNewsの緊急地震速報で震源が宮城と分かっていたので、最低限の冷静さは保てていた。このビルで働くようになって以来、何回か地震があったがもっとも大きな揺れ。1-2分続いたのだろうか。宮城震源で浜松でこの揺れでは東京あたりは大変ではないかと思った。すぐに震度6-7とわかる。自宅にメイル。子供たちとパンこね台(と我が家で呼んでいる丈夫な場所)に隠れたらしい。若い同僚の妊娠中の奥さんが東京にいたので心配になって聞いたら、連絡はついたとのこと。社内でも出張者の確認などが始まる。
USBに繋げるワンセグアダプタでテレビを見ると、安藤優子さんがヘルメット被って特番になっていた。フジテレビの近くで火災のニュース。ところが震源付近の情報がなかなか入らない。阪神淡路で神戸の情報が全く入らなかったときを思い出す。仕事をしながらワンセグをつけておく。
そして15:30ころのワンセグTVの津波映像に目を疑う。車がゴロゴロと転がっているのだ。このあたりで尋常な地震ではないことをようやく理解し始める。同僚にワンセグの映像を見せる。HさんやTさんに、阪神淡路のときのようにいまだに沿岸の情報がほとんど入っていないという異常さを伝えたりする。下手すると千人単位かも、などと心底心配になった。そしてその後のあのNHKの空撮。田んぼを信じられないような速度で津波が襲っていく。津波が高くなるよく言われた入り江ではなくて、あのような平地でこの状況ということは、他の沿岸はどうなってるのかと思う。そして。地名にうとい私でも、津波の映像の発信地が広範囲なことがわかってきた。このころからもう仕事が手に付かなくなっていた。しかし予定されていた社内の打ち合わせは普通に行われていた。打ち合わせの最初、同僚に東北の親戚の存在などを聞くがキョトンとしていたくらい、遠く離れたこちらでは映像を見ていないと実感がわかない状況だった。
遅くまで仕事をするつもりだったが、早めに会社を出て帰宅。子供たちはベッドの横に靴を置いて寝ていた。TVは特別編成。ひどい状況がどんどんわかってくる。なかでも見たことも無いような津波の映像に恐怖を覚える。仙台市若林区の警察からの数百人の遺体が見つかったという情報だけが繰り返し伝えられる。そのうちに、そこだけがひどいのではなく、他の所は情報さえあげられない状況だとわかってくる。一方東京ではターミナル駅にたくさんの人が足止めされている。
夜中に原発の電源喪失のニュースが流れる。そこで初めて福島の原発のことを思い出して不安になる(私のあたりの歳の人間は、日本各地の原発の場所をよく知っている人が多い)。
ちなみに、関東で帰宅できなくなっている方たちや、いまだ連絡の取れない被災地など、ノイズになりそうな気がして、この日からtwitterは見ているだけになった。その後も地震と津波の被害や、原発の状況が明らかになるにつれ、とても普段のようなことをつぶやく気になれず、心配して連絡をくれた方が少しいたので生存連絡と、楽しみにしていたイベントに行けなくなった連絡のための2回以外は、しばらく沈黙していた。